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殺生丸さまのお母さまからとんでもないお言葉をいただいたこの瞬間、“鈍器で殴られたような衝撃”とはこのことか、というほどにすっぱり頭が真っ白になってしまった。 当然頭の中ではいただいたお言葉を何度も反芻しているし、聞き間違いじゃないかと周りを見回したりもした。けれど泣いていたはずのりんちゃんも邪見も、そしてあの殺生丸さまでさえ目を丸くして呆然とされている。 …ということは、聞き間違いでもなんでもない。 私は確かに、“子供を身籠っている”と言い切られたわけだ。 そう結論付けても全然事態が把握できず頭が混乱しそうで仕方がない。けれどそんな私とは対照的に、突然ぱあ、と花が咲くような笑顔を見せたりんちゃんは嬉しそうに勢いよく私へ飛びついてきた。 「すごい志紀お姉ちゃんっ。赤ちゃんができたの!? いつ産まれる!?」 「待って。待ってりんちゃん。私がまだ話について行けてないからほんとにちょっと待って」 ぐるぐるぐると色んな思考が回り回る中でなんとか手を突きつけてりんちゃんを制した。なぜだかりんちゃんはすごく喜んで嬉しそうにしているけれど、当の本人である私はどれだけ考えてもやっぱり信じることができない。そもそもお母さまはなんでそんなことを言い出したのだろう。もちろん私のお腹は膨らんでいるわけでもない。だというのに、検査もなく一目見ただけで分かるものなのだろうか…。 …もしかしてお母さまは、私をからかっていらっしゃるのでは? ついついそんな思いに至ってしまいながら難しい顔をしていれば、私たちの様子を訝しんだお母さまがきょとんとした顔をしてわずかに小首を傾げられた。 「なんだ。そなたらは気が付いていなかったのか?」 「……え? ほ、本当なんですか…!?」 本心から言っているだろうその反応にたまらずドキリと心臓が跳ねる。するとお母さまは小さくもけらけらと笑い、「そのようなことを偽ってどうする」と呆れたように言ってのけた。 お母さまの雰囲気から、それをしてもおかしくないと思ったなんてことは内緒だけど、確かにそんな嘘をついたところで誰も得はしない。ということはどれだけ疑っても、どれだけ信じられなくても、お母さまの言ったことは真実ということだ。それをなんとか噛みしめるように頭の中で繰り返しては、なんの変化も見えないお腹にそっと手を触れていた。 「ま、まさかそんなことになってたなんて…私、全然気が付きませんでした…」 「無理もない。そなたはまだ腹も膨れておらぬからな」 「そうですが…それならどうして、お母さまは気が付かれたんですか?」 それだけがいつまで経っても分からず、すぐに顔を上げた私は少しばかり身を乗り出すようにして問いかけた。するとお母さまはどこか柔和に微笑まれて、 「匂いだ。そなたからは、母になる匂いがしている」 優しく、それでもはっきりと教えられる。そうだ、色々なことに見舞われて忘れかけていたけれどこの方は殺生丸さまのお母さま。殺生丸さまと同じ犬の妖怪だから、常人よりも一層鼻が効くんだ。 それを思い出してしまうと、なぜだか不思議ととても納得してしまう。それは犬妖怪の嗅覚がそれほど強いという説得力があるから、というだけではない。きっといつかどこかで聞いた噂話が、私の記憶の片隅に確かに残っているからだ。 “妊婦さんからは甘いような匂いがする”、そんな噂。 だからお母さまは気が付かれたのかもしれないと思ったのだけど、ふと、それと同時に似たような言葉をつい最近聞いたような感覚が芽生えてくる。いつだったか、誰に言われたんだったか…記憶を探るように視線を落としてみれば、変わらず私に抱きついてじっと見上げてくる小さな顔が目に映った。 ああ、そうだ…この光景… (あの時…りんちゃんが私に言ったんだ) 確信を得たように思い出したのは先日のこと。殺生丸さまや犬夜叉くんと別れて、刀々斎さんたちと一緒にいさせてもらった夜のことだ。幻夢蝶の話を聞いている時に図らずも不安にさせてしまって、いまと同じようにお腹の辺りに抱き着いてきたりんちゃんを宥めていたら言われたんだ。 “志紀お姉ちゃん、甘くて優しい匂い”って… だとしたら、あの時から…? 「…せ…殺生丸さま…」 気が付けば問いかけるように振り返っていた。なぜ殺生丸さまへ縋ったのかは自分でもよく分からない。ただ、途端に様々な感情が押し寄せてきてたまらなかったのだ。 すると私の瞳が捉えたのは、私と同じように信じられないという表情を見せる彼の姿。あまり一緒にいられなかったから仕方がないのかもしれないけれど、殺生丸さまも私の中の芽吹きに気が付いてはいなかったらしい。 そんな私たちの姿がおかしかったのか、しばらく黙って眺めていたお母さまが「ふっ、」と小さく吹き出す声が聞こえた。 「なんだ、揃いも揃って困惑しおって。素直に喜べば良いだろう。なあ殺生丸、そなた嬉しくはないのか?」 そう言いながらお母さまは可笑しそうにくくく、と笑みを抑えられる。対する殺生丸さまは難しい顔をしながら、珍しく戸惑っているように見えた。 だから、なのかもしれない。 きっと彼も私と同じように驚いているだけだ。きっと上手く言葉が見つからないだけだ。 心のどこかでそう分かっているはずなのに、どうしてか黙り込むその姿を見ていると胸の奥深くからなにかが込み上げてくるような気がしてくる。心の中で、緩やかにさざ波が立つ気がしてくる。不安が、駆り立てられる。 ――もしかしたら、殺生丸さまは“私とこうなること”を望んでいなかったのかも知れない。 頭のどこかでそんな声が聞こえた途端、私の心は瞬く間にざわめきを大きくした。喉の奥からぐじゅりと、苦いなにかが広がったような気がした。心臓が、潰れるような気がした。 「ごめん、なさい…」 静まり返ったこの場に、私のひどく震えた声が小さくも確かにこぼれ落ちる。するとそんな声も聞き逃さなかった殺生丸さまは訝しげに眉をひそめ、顔を歪める私に「…なぜ謝る」と問いかけてきた。 私はその声にどう答えるべきかと口をつぐみ、開いていた手を強く握り締める。握られた服は大きく歪み、深い溝を作った。 「…私が、身籠ってしまったからです…人間の、私が…」 掠れ消えそうになる声を振り絞って呟くようにそう言えば、より一層重苦しい空気がのしかかってくるような錯覚に襲われた。先ほどまで笑顔を浮かべていたりんちゃんも心配そうな顔を向けてくる。けれど私は顔を上げることもできないまま、ドクドクとうるさい心臓の音を一身に感じていた。 「お前が心配しているのは、子が半妖だということか」 「!」 どこか言い辛さを覚えていた私とは違い、殺生丸さまははっきりとそう言い切るように問うてくる。それを聞くと改めて思い知らされるようで、私は声も出せないまま、ただ深く噛みしめるように頷いた。 ――殺生丸さまの言う通り、人間である私と真の妖怪である殺生丸さまの間にできる子供は、当然“半妖”という類い稀な種族になる。 類い稀、そう言えばどこか聞こえはいいかもしれない。けれどその種族は殺生丸さまの弟である犬夜叉くんと同じもので、人間にも妖怪にもなれず、どちらからも受け入れられない…とても肩身の狭い人生を強いられる種族なのだ。 そしてそれはなにより、殺生丸さま自身がひどく嫌っている種族―― 私は浮かれてばかりでなにも考えていなかった。目先のことにしか気が向かなくて、将来のことを――こうなった時のことを、なにひとつ考えていなかった。少しも覚悟がなかったわけじゃない。けれど私が思っていた何倍も、何十倍も、直面した時の衝撃と不安が計り知れないほど大きかった。私なんかのちっぽけな覚悟では、あっという間に押し潰されて消えてしまいそうに感じてしまったのだ。 それを思ってしまうと、途端に殺生丸さまに――お腹の中のこの子に、とても申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。 「志紀…」 自分の情けなさに滲みそうになる涙を堪えた時、どこか諭すような柔らかさを持った声が私を呼んだ。けれど私は顔を上げられるはずもなく、堪えるために握りしめた手へ一層力を籠める。手のひらに、爪が食い込むほどに。 ――するとそれはゆっくりと重ねられた大きな手に、優しくも強く、しっかりと包み込まれた。 「志紀。私は奴を…犬夜叉を認めたわけではない。だが、以前ほど…半妖というものを嫌ってはいないつもりだ」 「え…」 抑揚のない、けれどはっきりとした声で告げられた言葉に耳を疑ってしまう。すぐに確かめるように見上げた殺生丸さまの瞳は堂々と、凛とした琥珀色の瞳。嘘を言っているわけではない、それだけは確かに分かるほど力強いそれに目を奪われた私は、呆然と見つめたまま握っていた手を無意識に解いていた。 その手はまるで掬われるように絡めとられ、また強く握られると同時に優しい温もりを伝えられる。するとそれに伴うように、気が付かない間に溜まっていた涙がツ、と頬を伝い落ちた。 「初めて耳にした時は驚いた。だが私はお前との子を…例えそれが半妖であろうと、喜ばしく思っている」 しかと、はっきりとそう言い切った殺生丸さまは、その口元にほんのわずかな笑みを浮かべながら誰よりも優しい眼差しで私を見つめてくれる。その言葉は慰めなんかではない、気休めなんかでもない、確かに心の底から思っての言葉だと、その琥珀が語っていた。 「志紀…不安など抱えるな」 穏やかに、それでも力強さを感じる声色が私の張り詰めた感情を解いていく。そっと差し出された左手は私のこぼれた涙を拭ってくれる。それがとても、とても温かかった。 「殺生丸さま…っ」 溢れる感情に弾かれるよう、殺生丸さまに縋りついていた。堰を切って溢れ出す涙は止められなかったけれど、構わなかった。不安を全て取り払ってくれるこの人の優しさを、ともに未来を歩んでくれるこの人の力強さを、溢れるこの涙が全て教えてくれるような気がしたから。この人の全てを、感じられているような気がしたから。 「志紀…」 声を上げて泣く私をそっと宥めてくれる殺生丸さまの手が心地よい。私を落ち着かせるように名前を呼んでくれる殺生丸さまの声が愛おしい。 それら全てに身を委ねるように縋っていた私はやがて、ようやく止まった涙の最後の一筋を落とし、ゆっくりと顔を上げた。そこには真剣な瞳で私を見つめる殺生丸さまの姿。愛しいその瞳を真っ直ぐに見据え、私は嗚咽に震えそうになる声を律して呟いた。 「やっぱり不安はあります…いっぱいあります…でも私…この子を産みたいです。ちゃんと産んで、あなたと一緒に、育てていきたいです」 しっかりとその心に伝えるように、そして、自分に最後の覚悟を決めさせるように確かに言い切る。すると殺生丸さまはしばらく私を見つめたあとフ…と小さく笑みを浮かべて、 「志紀ならそう言うと思っていた」 まるで全てを見透かしていたかのようにそう呟き、私の頬の涙の痕を優しく拭ってくれた。それが少しだけくすぐったくてついくすりと笑ってしまうと、りんちゃんも釣られるように笑顔を浮かべて一層ぎゅう、と抱きしめてくれる。邪見が呆れたように、けれど安堵のため息を漏らす。そして同じくため息をこぼしたお母さまが困ったような笑みをこちらに向けられた。 ――けれどそれも少しの間だけ。お母さまはパン、と一つ手を鳴らしたかと思えば、改めるように私たちの方へ向き直ってくる。 「話もついたことだ。志紀、そなたは子を産むまでしばらくここに残るが良い。身の回りの世話は屋敷の者にさせよう」 「え…ここに、ですか…?」 「ああ。ここならば危険も及ぶまい。…それとも、そなたの時代とやらに帰るか?」 その問いに思わず「あ…」と小さな声が漏れる。そうだ、叢雲牙を追い始めて数日、私は一度も現代に帰ることなくこの戦国時代にいる。ここに残ることに不満はないけれど、一度は現代に帰ってすることをしなければならない。こちらでの生活のための準備と、学校への連絡と、なによりも、親への報告―― そう考えたのだけれどふと、得も言われない不安が脳裏をよぎった気がした。それは、幻夢蝶のこと。いままで月光蝶を体に宿していたことで時代を行き来できていたけれど、その蝶は姿を変えて私の元を離れていった。 そんな状態で、私はもう一度現代に帰ることができるのだろうか。 たまらず幻夢蝶を象ったあのネックレスを取り出そうとしたけれど、どうしてかそれが見当たらない。あるのは私が作ったレジン製のネックレスだけ。どこかに落としてしまったかと見回してみるけれど、それらしいものはどこにも見つからなかった。 「どうかしたのか?」 「あの、現代には戻っておこうと思ったんですが、殺生丸さまにいただいた首飾りがなくて…あれがないと、現代に戻れないんです」 不思議そうな顔をするお母さまへ説明すれば、りんちゃんや邪見も同じように辺りを見回してくれる。けれどお母さまだけは「ふむ…」と小さく唸って、そして静かに手を差し出してきた。 「その首飾りを見せよ」 「え? は、はい」 どうしてかは分からないけれど、お母さまは私が作ったネックレスを要求された。私は言われた通りネックレスをその手に乗せて、念のため「みんなにも同じものを渡しています」と説明したのだけど、お母さまはそれを聞くなり殺生丸さまにも同じものを差し出すよう求めた。そしてそれを受け取っては、見比べるように二つを並べる。かと思えば太陽に透かして。やがてどこか納得したように小さな笑みを浮かべられると、私と殺生丸さま、それぞれの手の中にネックレスを戻された。 「どうやらそなたらの首飾りは繋がっておるようだ。志紀、幻夢蝶にそのような願をかけたのではないか?」 「え? 私が、ですか…?」 確か私が幻夢蝶に願ったのは殺生丸さまの助けになること。他になにも願った覚えはない…そう思っていたけれど、あの時――あの世とこの世の境に紛れ込んだ時、確かに“殺生丸さまの元へ導いて”と願った覚えがある。お母さまが言っている願というのが本当にそれなのかは分からなかったけれど、それでも私はしっかりと頷いてみせた。 するとお母さまは「やはりな」と呟いて、私の首元に人差し指をトン、と触れた。 「以前の首飾りは役目を全うし消滅したのだろう。だが同様の力がその首飾りに残されておる。月光蝶に慣れ親しんだ体を持つそなたなら、まだしばらくの間は使えるはずだ」 “しばらくの間”――有限を示すその言葉にわずかながらドキ、と鼓動が響く。やはり幻夢蝶を失ってしまったいま、その力をいつまでも自由に使えるわけではないということだ。 分かっていた。いつかは別れが来るものだと。 だけど私の中に、もう迷いなんてない。 私はすぐにネックレスを握り締めて、すぐにお母さまへと向き直った。 「では…私は一度、現代へ戻ります」 「ああ。こちらへ戻り次第教えよ。使いの者を寄越す」 「はい」 お母さまへ確かに返事をすれば、それに伴うようにネックレスを握る手に大きな手が重ねられる。少しだけ驚いて振り向けば、私を見つめたまま手を握ってくれる殺生丸さまの姿があった。 「殺生丸さま…もしかして…来て、くださるんですか…?」 「お前も、それを望むのだろう?」 分かっていると言わんばかりに小さな笑みを見せて問うてくる殺生丸さまに思わず言葉を失ってしまう。なにも言っていないというのに、どうしてこの人は私の望みを簡単に汲み取ってしまうんだろう。 「はい。一緒に、来てもらえますか」 なんでも見通されてしまうことに気恥ずかしさを感じながらそう言えば、殺生丸さまはふっ、と小さく笑って言った。 「無論だ」 その言葉を降らされるとともに握り直された手。その確かな温もりを感じながら微笑みを浮かべれば、殺生丸さまの手に導かれるように立ち上がってみんなへ向き直った。笑顔で真っ直ぐ見つめてくるりんちゃんに、殺生丸さまのネックレスを渡して。 行ってきます、それだけを言い残すと、私のネックレスを太陽にかざすように高く掲げた。 ここにいる誰の目にも、もう不安はない。 私たちは前へ進む自信をこの目にしかと湛えて、ネックレスから放たれる眩い光に包まれていった。 back