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気が付けば真っ白な霧が立ち込める空間にいた。どこかの空、雲の上とも思えるような得体の知れない場所。私はただ呆然と、ここを流れるように漂い続けていた。 「私…なんでこんなところにいるんだっけ…」 思わず呟いてしまったものの、それに答えてくれる人なんていない。それに加えて私自身が思い出すこともできないでいる。 (うーん…夢、なのかな。俗にいう明晰夢ってやつ…?) もしそうなのだとしたら、もっと楽しそうな空間にしてほしかった。なんでこんなよく分からない空間に漂っているだけの夢なんだろう。あれか、景色は殺風景だけど、空を飛んでみたい、っていう人類の夢を叶えてくれたんだろうか。 …でも私としてはそれよりも、もっと非現実的なことを体験してみたいところだ。例えば戦国時代にタイムスリップしちゃって、見たこともない妖怪なんてものに出会ったりとか…ってそれはしたことあるか。じゃあなにか別の…… (ん? タイムスリップ…?) 今さらっと“したことある”なんて思ったけど、なんでそんなこと思ったんだろう。あるわけないじゃん、そんな非現実的なこと。しかも戦国時代に妖怪って…ファンタジー混ざっちゃってるし。 いつか見た夢が記憶に混同しちゃったのかな… 「…………」 なんだか、変な感じ…頭の奥がもやもやするみたい。 気分転換に少し移動してみよう。もしかしたら現状に変化があるかもしれないし、気分転換をするならやっぱり散歩だよ、散歩。ただ空間を泳ぐのが散歩って言うのかは分からないけれど。 …とはいえ、このまま平行移動をしていても景色が変わる気がしないし…ちょっとだけ、真下に立ち込める雲みたいな霧の下に行ってみようか。なにかあるとすれば、きっとそこだろう。 慣れない感覚の中、頑張って下へ向かってみると簡単に霧の中に入ることができた。もし下とかなくてこれが永遠に続いたらどうしよう。それはちょっと怖いし、その時はなんとしてでも上に戻ろう。 「ん…? うわっ!?」 霞みがかっていた視界が突然晴れたかと思えば、ものすごく大きな骨が視界に飛び込んできた。なぜだか鎧を着けてる…犬の骨? よく分からないけど、たぶん犬だと思う。 よく見たらその周りに鳥っぽい骨も飛んでいる。あれは羽ばたいてるけど…生きてるの? 死んでるの? というか、そんな姿で飛べるの? 疑問が次々浮かんでくるけれど、一番強く思ったのはやっぱり、“ここはどこ”。 「夢って深層心理を写すって言うけど…これは一体なにを示してるんだか…」 はっきり言って、さーっぱり見当がつかない。あの骨がなにかを意味してるのかな。全然分からないけど、ひとまず近付いてみよう… 『君が志紀ちゃんか』 「えっ!?」 唐突に響いてくる声に思わず体を止めてしまう。 いまの声はどこから…? まるで頭に響いてくるようでいながら、空間全体に響いているような… でも私の他になにか喋りそうななにかなんていないし、可能性があるとすれば…飛び回ってるあの鳥の骨…? 『ああ、すまない。突然声をかけて驚かせてしまったな』 もう一度響された声が申し訳なさそうに笑うと、あの巨大な骨の額辺りにぼんやりとした人影が現れた。だ、誰だろう…全然分からないけど、ちょいちょい、と手招きしてくるから一応そこへ身を寄せてみた。 トン…とほんの小さな音を鳴らして足を着けば、ぼんやりとしていた人影がやがて判然とし始める。 頭の高いところで一つに束ねられた長い銀色の髪に、綺麗な金色の瞳。着物の上に珍しい形をした鎧を纏うこの人は、男らしさの中に美しさを持つ、類稀なる美男子だった。いや、男子って感じではないな。おじさま…に近い気がする。 でもそんなことよりも私はこの現実離れした男性の姿に、ものすごく見覚えがあるような気がしていた。なんだか、とても似ている人を知っているような…… 「あの…私、どこかであなたと会ってたりしますか…?」 『会ったことはないな』 あ、やだ私の勘違い。使い古されたナンパの手口みたいなことしちゃった…めちゃくちゃ恥ずかしい。 あまりの恥ずかしさについ埋まってしまいたくなる思いでどこかにちょうどいい穴がないかとキョロキョロ見回していると、不意に目の前の男性がクス…と微笑んだ。 『やはりこんな場所では落ち着かないか。すまないな。一言、お礼が言いたかったんだ』 「お礼…?」 お礼って、一体なんの? 初めて会う人がいきなりお礼を言いたかったってどういうこと? …やばい。本当に分からないことが多すぎる。すれ違いコントでも始まってるのかな、これ。 『…それに、君はあいつの初めての思い者だろう? 少し話してみたくなってな…うん。君となら、あいつもしっかりやっていけそうな気がするよ』 「あ、あいつ…ですか?」 『ああ。なんというか…あいつは素直じゃないから、きっと君が苦労することも多いだろうが…根は優しい奴だ。なにも心配はいらない』 「は、はあ…」 もはや私のことを無視するレベルで話されてるけど、あいつって一体誰のことなんだろう。本当に心当たりがないんだけど、もしかして同じ名前の誰かと間違われているんじゃないだろうか? そうじゃなかったらこんなに話をされて分からないなんてこと、絶対ないでしょう。 すでに手遅れな気もするけど、これ以上話が盛り上がらないうちに間違いに気付いてもらわないと…。 「あっあの、私…」 身を乗り出そうとしたその時、男性の大きな手が私の頭にぽん、と乗せられた。そのまま宥めるように優しく撫でられるのが心地よくて、それでいてどこか懐かしくて、思わず言おうとしていた言葉を忘れてしまうほど身を委ねてしまう。 なんでだろう…ずっとずっと好きだった人に、こんな風にしてもらったことがあるような気がする…。 不思議な感覚に少しずつ溺れるよう目を細める。そんな一瞬のうちに垣間見えた男性の表情は、これまでよりもずっと柔らかく優しく綻んでいる、とても幸せそうな笑顔だった。 『志紀ちゃん…本当にありがとう… 殺生丸を――よろしく頼む』 なにかを握り潰すように、私の頭から離した手をぎゅ…と握りながら、その言葉を最後にした男性は霧のように消え去っていった。辺りを見回してもどこにもいない。本当に、消えてしまった。 「せ…しょう、まる……?」 初めて聞いた、けれどどこか、懐かしい名前。復唱するように呟いてみれば、どうしてか胸にぽっかりと穴が開いているような不思議な感覚に襲われた。 (殺生丸って、誰だっけ…) 聞き慣れている気がする名前。だけど合致する人物像が浮かばない。 本当に私が知ってる人? あの人はその殺生丸さんと私に関わりがあったような口ぶりだった。でもなにも思い出せない。 思い出さなきゃ、いけない気がする。 きっとその人は、忘れていてはいけない人。 きっと本当は、忘れるはずがなかった人。 「殺生丸…さま……」 とても口に馴染む呼び名を囁けば、不意に握りしめた手の中に小さくて固い感触があった。それに気が付いて手を開いてみれば、紫色の花びらを閉じ込めたレジン製のチャームが現れる。 これは確か…私がみんなのことを思って作ったもの。 離れたくない。みんなと、あの人とずっと一緒にいたいと願いながら作った、私の想いの結晶。 「そうだ、殺生丸さまは……」 ――私を愛してくれた、この世界でなによりも一番愛おしい人――… それを思い出した瞬間、私の中から消えていた記憶が溢れ出すようにすべて甦ってきた。 出会って、一緒に過ごして、いつの間にか恋をして、結ばれて。それが偽りの愛かもしれない不安に駆られて、それでもそんな不安を掻き消すほどの愛をもらって、平穏を取り戻した私たちの前に現れた叢雲牙。 ああそうだ。殺生丸さまは叢雲牙を追って行かれた。私は、私たちのことは気にしないで行ってくださいって、背中を押した。 あの時――手が届かないほど離れ離れになってしまうと感じた不安は…いままさに直面している現状を予期していたんじゃないか。 「殺生丸さま…」 会いたい。いつも私を守ってくれた、大切な人に。 会いたい。いつも傍にいてくれた、あの人に。 会いたい。 会いたい。 あなたに会いたい。 早くあなたの元へ、帰りたい。 「!」 私が強く願うように想いを馳せた瞬間、握りしめていた手の中から眩い光が放たれた。そこにあったのは、チャームの花びらに重なるよう現れた幻夢蝶を象った光。まるで私を支えるかのような温かい光で輝いている。 いままで幾度となく彼の元へ導いてくれた蝶。 まだ私のわがままを聞いてくれるなら… 「お願い…幻夢蝶…」 私を…あの方のところへ導いて―― back