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「ごちゃごちゃうるせえ! おれには守るものがあるっ。だから絶対諦めねえっ!」 犬夜叉が叢雲牙に言い放った言葉。気付けばそれに眉根を寄せる私がいた。心を打った、などという類ではないにしろ、確かに私の気を引いたそれは手の中の獲物を小さく反応させた気がしたのだ。 「天生牙…?」 視線を落としてみればそれは刀身を白く光らせ、なにかを伝えようと細かく震えている。それによって誘われたか、私の脳裏には再びあの日の光景が甦っていた。 幾度も私の中に甦り、そのたび同じ問いを投げかけてくる父上の姿―― 「………」 視線を天生牙から外し、まるで引き寄せられるように周囲へ向ける。無意識の行動だったのかもしれない。ただその姿を捜すように視線を流せば、吹き荒ぶ風に煽られる志紀の姿があった。 『お前に守るものはあるか?』 不安げにこちらを見つめる志紀を目に留めるとともに、記憶の中の声がもう一度問うてくる。すると私の脳裏には邪見やりん、そして視線の先の志紀の姿がよぎった。 「守るものだと?」 再び天生牙へ視線を落とし声を漏らせば、それは瞬く間に風に飲まれてゆく。 父上の言う守るもの、かつてはそれが分からないでいた。いや、分かってはいたのだ。だが納得することはできず、あの日向けられたこの問いも忘れ去ろうとしていた。 しかしいまの私ならば――その思いを胸にした刹那、心地よい小さな温かさが傍に現れた気がした。 「蝶…?」 視線を上げたそこにいたのは、光り輝くひとひらの蝶だった。正しくは蝶のような形をしている光、というべきだろうか。当てはめるべき言葉さえ見つからないほど美しいそれは目の前に留まり、私になにかを伝えんと羽ばたくように揺れている。 得体が知れぬ。この光はなんだ、一体どこから現れた。瞬時によぎったその疑問に眉をひそめると、光は落ち葉のように緩やかな動きで羽ばたき私の左肩へとその身をとどめた。 「――!?」 咄嗟に目を疑った。光はまるで溶けるように私の中へ消え、その瞬間光の粒子がそこにあるはずのない“左腕”を形作ったのだ。 光は瞬く間に右腕と変わりない肌を見せ、かつて失ったそれと同じものを現した。ほのかに心地良さを感じる左腕に力を込めれば、元よりそこにあったもののように違和感なく動かすことができる。 どういうことだ。なぜ左腕が戻った。 …いや、それだけではない。叢雲牙に負わされた傷すらも消えている。 明らかな異変に目を疑っている間にも体はたちまち軽くなっていく。まるでなにかに力を与えられたようだ、それを感じ取った直後、確信にほど近い可能性を覚えて振り返っていた。 視線に捉えたのは、遠く離れた志紀の姿。 どういうわけか志紀は膝を突き、ただ静かにこちらを見つめたまま弱々しい笑みを浮かべていた。 (志紀…お前まさか、蝶を…) それを悟った瞬間、突如犬夜叉から雄叫びのような声が上げられた。それと同時に鉄砕牙を振り降ろし爆流破を放つ様が見える。 仕掛けたか。それを察しながら横目に志紀を見れば、あやつは唇を微かにその形に歪め、しかと私へ伝えようとしていた。 “お願いします”。 声が届かずともはっきりと伝わったその言葉に思わず目を丸くした。 お前はなぜそのように苦悶を滲ませながらも私を支えんとする。自己犠牲がすぎる、お前は…ただ私のそばにいるだけでいいというのに。 志紀の姿に唇を固く結んだ私は目を伏せ、そして再び叢雲牙を睨視した。 ――父上。あなたの問いに、私は… ようやく胸を張って答えることができる。 「この殺生丸…守るものはただひとつ!!」 強く振り切った天生牙から蒼龍破を放つ。それが地を這い進み爆流破とともになった瞬間、叢雲牙から驚愕の声が漏らされた。しかし奴に成す術などなく、合わさった二つの技は地を穿ちながらその距離を失くしていく。 『ぐおおおお!!』 防ぐことも叶わぬ叢雲牙は正面からそれを受け、けたたましいまでの断末魔を上げる。息を飲む間もなく技に飲まれた叢雲牙は天へ昇り、激しく渦に巻かれる体を散らしていった。 掠れ消える断末魔が聞こえなくなった頃、爆流破と蒼龍破は天に昇りつめ周囲の暗雲を吸い寄せていく。頭上に分厚く立ち込めていた雲は爆流破らを中心に渦を巻き、溢れる電気を迸らせながら徐々に纏まり始めていた。 終わりだ。 叢雲牙の最期を確信した私はもう見届けてやる義理もないだろうと志紀へ振り返った。 「志紀…?」 目に映る光景に眉根を寄せる。どういうわけか志紀はその身を横たわらせ、犬夜叉の連れの女に体を揺さぶられていたのだ。だが志紀は気を失っているのか、呼びかける女へ反応を見せる様子すらない。 なにかあったのか。瞬く間に胸がざわめき立てることに耐えられず、すぐに地を蹴っては志紀の元へその身を下ろした。 「殺生丸っ、志紀ちゃんが…」 私は女が呼びかけてくることも構わず志紀を抱き上げ、眼下の足場へと飛び降りた。 いずれあの場も崩れる。それを察して志紀を安全な場所へ連れていけば、私たちに気付いたらしいりんと邪見が慌ただしく駆けてきた。 「殺生丸さまあっ。あれ…志紀お姉ちゃん、どうしたの!?」 「亡者の気にでも当てられたか…だから言わんこっちゃないっ」 不安げに見上げるりんに続いて邪見が言う。私もその可能性を考えはしたがそれは違うらしい。掠れる呼吸を繰り返す志紀の額には脂汗がにじみ、ひどく苦しげだ。それはまるで、なにかに脅かされているような… たまらず眉根を寄せ汗を拭ってやれば、不意に視界が明るさを取り戻した。どうやら渦巻いていた暗雲が消え、冥界の岩が崩れ始めたようだ。 「あっ、あれ!」 「ん~? あれは…叢雲牙!」 不意に声を上げたりんと邪見が振り返った先には、自己を主張するように煌めいた叢雲牙とともに“かつての左腕”があった。どうやら叢雲牙の呪縛を逃れたようだが、いまさら捨てたものに縋るつもりなどない。 それより容体の優れない志紀を診てやらねばならん。そう思い踵を返そうとしたその時、叢雲牙が煙の中に沈むと同時に強い光を放った。周囲を染め尽くしてしまうほどのその光はどこか懐かしい気配を感じさせ、私は無意識のまま視線を振り返らせていた。 「!」 目を見張った。疑った。 光の中に、いまは亡き父上の姿があったからだ。 『殺生丸…犬夜叉…二人ともようやく答えを見つけたな…これで叢雲牙は永久に冥界に封じ込められた…もう、お前たちに言い残すことはない…』 その言葉を最後に、父上は一層強さを増した光の中に消えた。 同じく驚愕に染まる犬夜叉や刀々斎たちが見つめる先でやがて光さえも失せ、落ち着いた大地は眩い日に照らされる。 ――鉄砕牙と天生牙の力を合わせ叢雲牙を葬り去る。父上が私と犬夜叉にそれを託していたのだという話を口にする冥加たちに背を向け、私は未だ意識を取り戻さぬ志紀を抱えたままその場を去った。 慌てた様子でついて来るりんと邪見の足音を耳にしながら歩みを進めていく。するとそのわずかな揺れによって、腹に乗せてやっていた志紀の腕が滑り落ちた。 それほど衰弱しているのか、思わず焦りのような感覚に苛まれながらもその手を掬い取った瞬間、得も言われぬ感覚がよぎり足を止めた。 なんだこの違和感は。なにかがおかしい。だが、一体なにが… 「志紀…?」 変わらず力なく身を委ねる志紀の頬に触れる。確かにそこには温もりがあるが、私の嫌な予感は拭えなかった。ただ誘われるように、首筋へと手を伸ばす。 「!」 志紀の脈が――止まっている。 「志紀!」 強く呼びかけるとともにわずかに肩を揺らしたが志紀は首を項垂れるだけで一切の動きを見せない。 まさか、そんなわけがあるはずはない。そうは思いながらも足元に志紀を寝かせ、ただ静かに天生牙を握りしめていた。 ――天生牙…お前の力で志紀を…… 「なっ…」 見えぬ。黄泉の国の使いである小鬼たちの姿が、なにひとつ。 どういうことだ。なぜ見えんのだ。 ただの早とちりだったかと口元へ手をやるが、確かに志紀は息をしていない。認めたくはない、だが、志紀は確かに死んでいた。ならばなぜ奴らの姿が見えぬ。なぜ黄泉の国の使いを斬れぬ。 ――これでは、志紀を救えぬではないか。 「志紀…目を覚ませ、志紀…」 どこか安らかにも見えるその頬へ触れながら囁きかけるも、固く閉ざされた志紀の目は開く兆しもない。 ――そもそも、なぜ志紀は死んだ。 あの蝶は…恐らく幻夢蝶だったそれは、私に左腕と力を与えた。ならば志紀、お前は命と引き換えに、左腕と力(こんなもの)を願ったとでもいうのか。 お前はそんなことで、私が喜ぶとでも思っているのか。 お前を失うくらいならなにも要らぬ。 お前の代わりになるものなど、なにもない。 志紀―― 「久しい姿が見えたと思えば…殺生丸よ、なにを辛気臭い顔をしている?」 唐突に掛けられた声に伏せていた目を開いた。覚えのある女の声。 なぜこのような場所にいるのか。そんな思いを抱えながらも、私はどこか縋るような目をそれへ向けていた。 「母上…」 back