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志紀、りん! 無事だったかっ」 「邪見さまっ」 「よかった、生きてた!」 先に行ってしまったかごめちゃんを追うように階段を駆け下りる中、突然投げかけられた声は阿吽に跨る邪見のものだった。 一人にしちゃったから大丈夫かと心配していたのだけどどうやらピンピンしているらしい。それどころか「それはこっちの台詞だっっ」なんて反論までされた。 「お前らにもしものことがあればわしが殺生丸さまに…って、それはよい。早くここを出るぞ!」 「分かってるっ」 大きな手振りで急かす邪見に声を上げて階段を駆け降りようとした時、握っていた小さな手が踏みとどまるようにグ、と私を引いた。 咄嗟に振り返れば眉間にしわを寄せたりんちゃんの姿。なにやら難しい顔をしてちらりと上階を振り返っていた。 「殺生丸さま…大丈夫かな…」 「りんちゃん…」 不安げにこぼされた彼女の声に思わず私まで引き返してしまいそうになる。それでも「早くしろっ」と声を上げてくる邪見のおかげで我に返り、りんちゃんの小さな手をもう一度しっかり握り直した。 「りんちゃん、殺生丸さまなら大丈夫だよ。ね、そうでしょ?」 そう問いかけてあげればりんちゃんの表情が少しだけ驚いたように気を緩める。けれどそれもすぐに強気な笑顔に変わって「うんっ」と元気な声を返してくれた。 そして私たちはすぐに階段を駆け下り、やっとの思いで城から抜け出す――その時だった。 「きゃあ!」 「な、なに!? 地震!?」 突然大地が唸るような音が響いて大きな縦揺れが起きた。あまりに激しいその揺れは城の柱を軋ませて小さな木片たちをパラパラと降らせてくる。 これはただの地震なんかじゃない。直感的にそう感じ取った私はりんちゃんの手を強く握りしめてすぐさま城を飛び出した。するとそこにはかごめちゃんと合流した弥勒さんたちが待ってくれていて「早くっ。こちらです!」と声を上げて私たちを誘導してくれる。 それに従って必死に走っていく間も揺れは治まらなかった。それどころか徐々に揺れ幅が大きくなっていて、ついには私たちの後ろで城や山に生えていた巨大な角のような塊が崩れ落ちていく。 もはや城が建つこの山も全て崩れかねない。それを嫌でも感じさせられた時、突然どこかからともなく低く大きく響かされた声が大気を震わせた。 『我、ここに冥界への道を開かん!』 その声は確かに叢雲牙のものだった。殺生丸さまたちを掻い潜ってきたのだろうか。 あの二人がやられるはずがない、頭ではそう分かっていても心のどこかに一抹の不安を抱えて落ち着かなかった。 それでもこの足を止めるわけにはいかず、みるみるうちに崩れていく城から必死に逃げ続ける。すると突然、そんな私たちを追い越すように麓の地面が大きな亀裂を走らせた。直後にはそこから緑色の光が溢れ出し、次いで凄まじい音を立てながら巨大ななにかが這い出してくる。 地面を大きく抉り返し、やがて鎮まるように天高くそびえ立ったもの――それはまるでこの世のものとは思えないほど不気味で得体の知れない、歪な塔のように見える巨岩だった。 「いかん。叢雲牙め、冥界を開きおったかっ」 「め、冥界っ? なにか起きるんですか?」 「死者と生者を分かつ境界がなくなるんじゃ。わしら皆、おっ死んじまうぞ!」 鞘のおじいさんに続いて刀々斎さんが淡々としながらも不穏な言葉を向けてくる。 かごめちゃんが思わず「そんな…」なんて声を漏らしているけれど私はそんな声すら出てこない。もうはっきり言って、ぶっ飛びすぎてついていけていないのだ。冥界だとか、使者と生者を分かつ境界がなくなるだとか、あまりにもスケールが大きすぎる。 やっぱりこの世はおとぎ話のようだ。 「なにせ、天、地、人の地を統べる剣じゃからな…」 「鉄砕牙と天生牙が争っとるうちに、奴め、この世界を冥界に取り込んでしまおうとしとるんじゃ…」 呆れを含みながらも恐怖を感じさせる声色で呟かれた鞘のおじいさんの言葉にはっとする。 そうだ、殺生丸さまは…殺生丸さまはいまどこに。 あれから姿を見られていないけれど、叢雲牙がこうして冥界を開いているということは決着を付けられなかったということだ。きっとどこかにいて、叢雲牙を追っているはず。 どうにかして鉄砕牙と天生牙の力を合わせるよう…犬夜叉くんと協力してもらうよう頼まないと―― 「……っ!」 「ば、ばかっ。そっちへ近付くんじゃない!」 いても立ってもいられず、私はすぐに殺生丸さまを捜すよう小高い崖へ駆け出した。けれど足を止めたその向こうに殺生丸さまの姿は見えない。それどころか激しく吹き上げてくる風の下に、ザワザワと大量に蠢きまわる不気味ななにかが見えた。 赤黒い点のように見えるそれは所狭しとひしめいていて、見ているだけでも気持ち悪くなってしまいそう。 たまらず顔をしかめて後ずさると、私に続いたかごめちゃんたちが同様にそれを見つめて表情を強張らせていた。 「なに、これ…」 「冥界の亡者どもじゃな…」 「生きとる者の魂を呼び寄せようとしておるんじゃ…早いとこ逃げんと、お前たちも魂吸い取られてしまうぞ」 「で、でもっ、まだ殺生丸さまたちが…――っ!?」 「そら来た!」 私が抗議の声を向けた瞬間、突然凄まじい風が叩きつけるように吹き込んできた。どうやらこの風はあの塔のような巨岩を中心に渦巻いているらしく、油断したらすぐにでも体を持っていかれてしまいそうなほど強く吹き荒れている。 私は咄嗟にりんちゃんを抱き寄せてその場に押し留まるよう力を込めた。私でさえ危ういんだ、りんちゃんは支えてあげないと本当に飛ばされ兼ねない。 その時さらに小さな彼のことを思い出すと、途端に「ひ~っ」という情けない悲鳴が響された。心配的中、邪見だ。 「邪見っ、阿吽に…」 「うわあ~!」 「おわっ!」 「じゃっ、邪見!?」 阿吽に掴まっていて、と助言しようとした刹那、吹き飛ばされた七宝くんが人頭杖にしがみついて邪見ごと吹き飛んでしまった。 そのまま真っ直ぐこちらへ飛んでくる姿に胆が冷えたけれど、私が手を伸ばすよりも早く刀々斎さんが人頭杖を掴んでくれて。それにしがみついていた七宝くんと邪見はなんとか助かり、思わずこちらが大きな安堵のため息をこぼしてしまった。 …それにしても、この空気…やけに気持ちが悪い。 この風に煽られているだけで心の底になにかが湧き上がるような感覚があって、気を抜くと瞬く間にそれに飲み込まれてしまいそうになる。なにかで、遮らな、い…と…… 「みんな、わしの周りに集まれ!」 「!」 意識が朦朧とし始めた瞬間に鞘のおじいさんからそんな声が上がった。おかげで失いかけていた自我を取り戻した私もみんなも、鞘を持つかごめちゃんの元へ身を寄せ合っていく。するとかごめちゃんが地面に鞘を突き立てて半円状の青白い結界を張ってみせた。 おかげで私たちが強風に曝されることはなくなった。けれど死の冷たさなのか、ここには私たちの体温を奪わんとする冷え込んだ空気が満ちている。 「寒いよ、志紀お姉ちゃん…」 「大丈夫…私がいるからね…」 「おい、鞘っ。なんとかならんのかっ」 「わしの力ではこれが限界じゃ…じゃが、この結界から出たら、人間たちは間違いなく亡者に呼び寄せられてしまうぞ」 がなり立てる邪見を諭すように告げられた言葉から、いまの私たちにはどうすることもできないのだと嫌でも感じさせられる。 この状況を打破できるのはやはり殺生丸さまと犬夜叉くんだけだ。彼らがいなければ私たちはこの場から動くこともできない。 それをはっきりと思い知らされたせいか、黙り込んでいる邪見を見るとなにやら心臓の辺りを押さえてものすごく強張った顔に尋常じゃない量の汗を掻いていた。 「(冗談じゃないっ。志紀とりんにもしものことがあったら、わしが殺生丸さまに殺される…) あ゙っ。殺生丸さまっ!」 「「えっ!?」」 ドキ、と心臓が跳ねるような感覚を抱いてすぐに顔を上げる。邪見が見上げているのは遥か頭上。釣られるようにそこへ視線を向けた私とりんちゃんが見たものは、なにかと対峙する殺生丸さまの姿だった。 あれは…叢雲牙…? 闘っていたはずの猛丸の姿はどこにもなく、代わりに左腕と同化した剣を振るう不気味なものが殺生丸さまと闘っていた。その不気味ななにか、下半身こそは人間と同じだけどその上は黒く、まるで人間の胴体だけを残し棘を無数に生やした“化け物の成れの果て”というに等しい姿をしている。 あれ自身が肉体を作り出したのかどうかなんて殺生丸さまに逃がしてもらった私には到底分からないことだけど、あの禍々しさは叢雲牙そのものに間違いない。 思わず冷汗がにじむ思いでそれと殺生丸さまを見つめていれば、同様に犬夜叉くんがそこへ駆け込んでいった。けれど、殺生丸さまがすぐに犬夜叉くんを振り払ってしまう。 殺生丸さまはそのまま叢雲牙に剣を振るい組み合うのだけど、やはり譲る気はないらしい犬夜叉くんがまたも割り込み殺生丸さまを押し退けてまで叢雲牙を仕留めようとしていた。 「ダメじゃ…バラバラに立ち向かって敵う相手じゃない…」 揃う様子のない二人の動きに鞘のおじいさんから弱々しい声が漏れる。当然だ、プライドの高い殺生丸さまが普段から見下している犬夜叉くんとそう簡単に協力するはずがない… 「っ邪見! りんちゃんをお願い!」 「は? なにを…って、おいっ。志紀!?」 「志紀っ、かごめ! どこに行くんじゃ!?」 いても立ってもいられなくなったのは私だけではなかった。邪見や七宝くんが驚いた声を向けてくる中で私たちは揃って結界を飛び出す。 かごめちゃんが兵の残骸から弓矢を拾っている間にも、私は少しでも彼らに近付くべく真っ先に隆起した岩を駆け上がった。 back