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「きゃっ」 「痛っ」 ドサ、と無造作に畳へ落とされて小さな声を漏らした。それでもすぐにりんちゃんの安否を確認した私はその手を握りながら、周囲を見回すようにゆっくりと顔を上げる。 …なんだか得体の知れないものが散らばっていて汚いし、禍々しいと思うほどに薄暗い。そんな中でも唯一ほんのりと灯りが揺らめく場所があって、私だけでなくかごめちゃんもりんちゃんもそっちを向いていた。そんな私たちの視線が捉えたのは濃い影を落とす、なにか。 「人…?」 「誰なの!?」 「二百年前、犬夜叉の父君と戦った…刹那猛丸!」 鞘のおじいさんはどうやらその人を知っているようで大きな声を上げてきた。揺れる燭台に照らされるその猛丸とやらは人間のようだけど、額の片側に大きな角が生えていたりと人ならざる姿をしている。そしてその手にはしっかりと、あの叢雲牙がある。 『ほお…面白いものを連れてきたな…』 「ありゃ…叢雲牙の奴め、猛丸に取り憑きおったのかっ」 『猛丸よ…この娘らは十六夜と同じ輩だ…お前が殺めたあの十六夜とな…』 「十六夜…」 猛丸の傍でまるで煙のような姿を見せる叢雲牙が言い聞かせるように低く告げる。“十六夜”って聞いたこともない名前だけど…一体誰なんだろう。 なんて疑問は同様の思いをしたかごめちゃんによって、鞘のおじいさんへ投げかけられた。おじいさん曰く、どうやら十六夜さんというのは犬夜叉くんのお母さんらしい。 『娘らを殺せば犬夜叉と殺生丸はどんな顔をするか…』 不意に叢雲牙がどこか面白そうな声を漏らしてくる。するとそれに伴うように座り込んでいた猛丸が腰を上げた。 来る…それを感じ取った私はすぐにりんちゃんを背後へ隠して立ちはだかった。 「そ、それ以上こっちに…――っ!?」 思い切って威圧しようとした瞬間喉元に鋭い切っ先を突きつけられて声を詰まらせる。明らかな殺意。不気味に光る叢雲牙の向こうの猛丸は視線だけで私を射殺さんばかりに強く睨みつけていた。 「お前らは十六夜だ…物の怪どもと行動をともにする女は皆、あの憎い十六夜なんだっ!」 うわ、こいつやべー奴だ。相当ぶっ飛んでいらっしゃる。 「…って、うわっ!?」 バカにした心を読まれたのか叢雲牙を大きく振りかぶられて咄嗟に深くしゃがみ込んだ。と同時に、頭上でブン、という物騒な音を鳴らされる。 こいつ、本当に私たちを殺す気だ。なんの容赦も躊躇いもない。 …でもこんなところで殺されてたまるか。私にはまだまだやり残したことがあるんだ。 決意を固めるように自分へそう言い聞かせるとすぐにりんちゃんの手を取って後ろへ駆け出した。けれどかごめちゃんだけはその足を止めてしまう。それどころか彼女は威勢よく叢雲牙の鞘を構え出した。 「来るなら来なさいっ!」 「ちょっ、かごめちゃん戦う気!?」 「そんなんでどうするつもりじゃ!?」 「結界くらい張れるでしょ!?」 私たちが壁際に逃げている間にもかごめちゃんは鞘のおじいさんと言い争い始める。 鞘のおじいさんがそんな様子だと結界も張れないんじゃ…という私の予想は見事的中してしまい、かごめちゃんの体は呆気なく私たちの傍の壁に打ち付けられた。 「か、かごめちゃんっ!」 「なんてことするのっ。男のくせに女の子いじめるなんて!」 勇敢なりんちゃんが物怖じすることもなくかごめちゃんの前に立ちはだかって猛丸へ言い放つ。本当にこの子は怖いもの知らずというか…見てるこっちが心配になってしまう。 私は強く唇を噛み締めてその小さな体をグ、と引き下げると、りんちゃんの手から天生牙を取って猛丸へ向けた。 『ほお、人間の小娘が天生牙を使うつもりか?』 「力とか知らないけど…あんたたちぶん殴るくらいはできるでしょ」 『くくく…威勢がいいな、月光蝶の小娘…』 「え…!?」 いま確かに月光蝶って…こいつ、なんでそのことを… 『知りたいか? なぜお前に宿っていることを知っているか…』 私の心を読むように低く喉を鳴らす叢雲牙に胸騒ぎがする。段々と強くなっていく私の鼓動が鼓膜を刺激する中、叢雲牙に指示された猛丸は灯かりがわずかに届かない物陰へ歩んでいった。 その視線が落とされた先にあるのは、気味の悪い肉塊のようなもの。 猛丸がそこへ手を伸ばしていく姿に、私は得も言われない不安と恐れと、歓喜のような複雑な感情が膨らんでいくのを感じた。 ――嫌、見たくない、欲しい、いらない、早く一緒になりたい、消えてほしい、来ないで―― 交錯する感情が次第に呼吸を荒くさせる。いつしか小刻みに震える手が天生牙をカタカタと鳴らせば、なにかを手にしたらしい猛丸が体を持ち上げてこちらを向いた。 『こいつがお前に強く反応していたのだ』 「――っ!!」 鋭く吸い込んだ息が詰まる。私が見つめる先…猛丸が摘まむようにして持ち上げたそれは、いつか見た番いの赤い蝶――陽光蝶だった。 片翅を傷つけられているそれは命の危機を感じているのか、必死に私へ…私の中の月光蝶へ助けを乞うように翅を羽ばたかせている。 『こいつらが幻夢蝶となった時、それは力を与えるらしいな…?』 「まさか…それを狙って…」 『くくくく…そうだ…あの殺生丸といえど…連れの小娘から得た力にねじ伏せられる気分は、さぞ屈辱的だろうからな…』 叢雲牙の不気味な声が響く中、陽光蝶を持つ猛丸の手が伸びてくる。それがまるでスローモーションのように近付いてくることに、かつて味わった“狙われる恐怖”とは違う、正体のわからない別の恐怖を感じた。 ――嫌だ、捕まりたくない、怖い、こわい…… 「いやあっ!!」 思い切り声を張り上げた直後、肉を断つような鈍くも凄まじい音がほんの一瞬鳴らされた。次いでなにかが床へ落ちる音が聞こえてはグ、と肩を掴まれる。 「あっ…」 「殺生丸さまっ!」 私が上手く声を出せない代わりにりんちゃんが愛しい人の名前を呼ぶ。ずっと待ち望んでいた姿に腰が抜けそうになる。 ああ、来てくれた。 言葉にならない感情が大きく湧き上がってくる中、静かに猛丸を見据えた殺生丸さまは「志紀」と気を正すように呼びつけてくる。 「必ず迎えに行く。今はりんとともに行け」 「は、い…」 ギュ…と殺生丸さまの着物を握り締めて返事をした私はなんとか背後のりんちゃんたちの元へ行く。けれど自分が握っている天生牙の存在を思い出しては小さく呼び掛けながら振り返った。 「あの、これを…」 「………早く行け…」 差し向けた天生牙を一瞥された殺生丸さまはすぐに猛丸へ視線を戻してしまう。私はやむなく足元に天生牙を置いておくことにして、りんちゃんに手を引かれながらその部屋を駆け出した。 ――さっき私が襲われかけた時のなにかが落ちた音は、断ち切られた猛丸の手だったらしい。その証拠に部屋を出る前に盗み見た猛丸の手が、気味の悪い色をして元に戻っていく様子が見えた。 おかげで陽光蝶は逃れられたようで姿をくらましている。そのことに落胆と安堵という正反対の感情を同時に感じてしまう私は、りんちゃんたちと一緒に一層暗い階段へと飛び出した。 「志紀お姉ちゃん、大丈夫?」 「うん…少しびっくりしただけ…ありがとう」 「こっちよ二人ともっ」 階段を駆け下りながら心配してくれるりんちゃんにお礼を言えば、先に降りていったかごめちゃんに呼ばれる。「うん!」と高らかに返事をするりんちゃんに続いてかごめちゃんが降りていく次の階段へ向かおうとした、その時だった。 「きゃーっっ!」 「えっ?」 「な、なにっ?」 どういうわけかかごめちゃんが悲鳴を上げながら引き返してくる。困惑する私たちが戸惑った次の瞬間、下の階から巨大な鬼が上がってきた。私たちをここまで運んできた奴だ。 低い雄叫びのような声に思わず「ぎゃーっ!?」なんて悲鳴を上げてりんちゃんと猛ダッシュUターンを決め込んだ時、かごめちゃんが短い悲鳴を上げて床に叩き付けられた。その拍子に犬夜叉くんの首飾りの数珠たちがまたも散らばってしまう。 「かごめちゃん!」 「かごめさま!」 「う…ぐ…」 すぐに引き返した私たちが駆けつけようとする前で、鬼に胸ぐらを掴まれたかごめちゃんの体が持ち上げられる。このままじゃかごめちゃんが危ない。そう悟った私たちは咄嗟に数珠を拾い上げていた。 「かごめさまを放せ!」 「いい加減にしてよこのバカっ。もううんざり! 鬼は外っっ!」 最早私に至ってはこの短期間に与えられた不安や不満から八つ当たりするように思いっきり数珠を投げつけていた。するとそれが見事命中した途端鬼の体がジュウ、と焼けるような音を立てて、悲鳴に近い恐ろしい声を漏らされた。 「かごめちゃんっ」 「けほけほ…ありがとう二人とも…」 解放されたかごめちゃんに駆け寄ればなんとか無事だということが窺える。それに安堵していると、数珠が当たった箇所から煙を立ち昇らせる鬼が再び雄叫びのような声を上げてきた。 まだやるか。私がすぐに身構えようとした目の前で、数珠をかき集めたかごめちゃんが鬼に向かって一気に投げつけた――けれど、それは思いっきり鬼の体から外れて床に虚しく転がってしまう。 「だめじゃんっ」 「ふんっ。あーん、当たらない~っ」 「かごめちゃんコントロール下手すぎない…!?」 再チャレンジするもまた外すかごめちゃんに思わずツッコんでしまった。その時突然「どけ!」という声が響かされて、階下から荒々しい足音が響いてくる。 「下手くそ! であーっ!」 私と同じ悪口を放ちながらいきなり飛び出してきた犬夜叉くんが掛け声とともに鉄砕牙を振り降ろす。するとものの見事に鬼の体が真っ二つに両断されて、青色の血のような体液を散らした。 あまりにもヤバい予感がしたからすぐにりんちゃんの目を覆い隠したけど正解だった。普通にグロい。 思わず私が顔をしかめていた頃、駆け寄っていくかごめちゃんが犬夜叉くんと言葉を交わす。するとそこに続いたりんちゃんが犬夜叉くんへ控えめに申し出た。 「あのね…殺生丸さまがまだ上で…」 「あの野郎、一人でカッコつけやがって!」 「あっ、待って犬夜叉くん!」 悪態づくと同時にすぐさま階段を駆け上がろうとする犬夜叉くんを慌てて止めたら「なんなんだよっ」なんて怒鳴られた。急いでるのは分かるけどこれだけで怒鳴られるとは…前から少し思ってたけど、犬夜叉くんチンピラっぽいな。 そう思ってしまいながらも私はすぐに気を取り直して犬夜叉くんへ言った。 「叢雲牙を倒すにはその鉄砕牙と、殺生丸さまの天生牙の力を合わせなきゃダメなのっ」 「なんだって!?」 「お前の爆流破と殺生丸の蒼龍破を合わせねば、叢雲牙の獄龍破に勝つことはできぬ」 「けっ。殺生丸がおれに協力するわけねえだろっ」 やっぱり犬夜叉くんもそれを分かっているようで鞘さんの言葉を振り払うように顔を背けてしまう。けれどそんな姿にかごめちゃんから「ばかっ!」と大きな罵声が飛んだ。 「あんたが殺生丸に協力するのよっ」 「んなことできるかっ」 「他に方法がないの! 兄弟なんだから一度くらい譲ったっていいでしょっ。やってみて! 犬夜叉ならきっとできる。今までだってなんとかして来たじゃない!」 「犬夜叉くんお願いっ、殺生丸さまを…」 私の代わりに支えて。 なんて言葉を出せるはずがなく、私は押し黙るように口を閉ざしてしまった。犬夜叉くんはそんな私を見つめて視線を落とすと、なにか考え込むように黙ってしまう。 「けっ…能天気に言いやがって!」 吐き捨てるようにそう言った犬夜叉くんはそのまま階段を駆け上がっていった。本当に協力してくれるんだろうか…無力な私は二人を信じるしかない。 「殺生丸さま…」 蝶の形をした石のチャームと押し花の首飾りを握り締めながら、殺生丸さまの無事と…ことの終わりを強く願った。 back