12
なんとか阿吽によじ登った私たちはその鼻を頼りに見失ってしまった殺生丸さまを探し続けていた。するとやがて無骨な岩肌の崖が見えてきて、阿吽が“近い”ということを教えてくれる。 けれど殺生丸さまは眼下にある森の中を歩いているのか、上空から捜している私たちにはそのお姿が見えない。 たまらず大きな声で呼んでみようとしたらなにかに気が付いた邪見が突然私の体をよじ登って口を塞いできた。 「んぐっ。な、なにすんの邪見!」 「声を立てるなっ。いいかお前ら、静かにしていろ。こっちだ」 そう言った邪見はやけに緊張した様子で茂みの方を指差す。その顔があまりにも真剣で、思わず息を飲んだ私は指示通り阿吽をその茂みへ向かわせた。 一体なにがあるんだろう。そんな思いを抱えるのは私だけではないようで、無事着陸した阿吽からぴょん、と飛び降りたりんちゃんも不思議そうに辺りを見回している。 「邪見。なにがどうしたの」 「犬夜叉だ…」 「犬夜叉くん?」 真っ先に茂みの真裏へ駆けていく邪見の言葉を反復する。なんで犬夜叉くんの名前が出るんだ。訳が分からないまま邪見の隣にしゃがみ込んでその先の崖を見つめてみれば、背後の森とは対照的なくらい明るく開けた崖の先に立つ犬夜叉くんの姿が見えた。 犬夜叉くん…こんなところに一人で、なにしてるんだろう。 背を向けられて表情も窺えない彼はほど強い風に殺生丸さまと同じ銀色の髪を揺らしている。辺りにはかごめちゃんたちの姿も見えないけど… 「あ、殺生丸さま!」 「えっ」 不意に上げられたりんちゃんの声に驚きながら振り返ると、確かにその指が指し示す方角に殺生丸さまの姿があった。思った通り、殺生丸さまは森を抜けてきたらしい。 「やはり貴様か、犬夜叉…」 気配に気が付いた犬夜叉くんが振り返ったところへそう呟く殺生丸さまが歩み寄っていく。 明らかに穏やかじゃない。ピリピリとした空気すら感じるこの状況に言葉を失っていれば、殺生丸さまはまだ距離のあるところで足を止められて向かい合う犬夜叉くんを睨むように見つめていた。 「なぜ、貴様ごときが叢雲牙を持っている…父上の剣がまた貴様を選んだとでも言うのか?」 「知るかそんなこと…こんな剣、欲しけりゃくれてやりてえところだが、腕ずくで奪うしかねえみたいだぜ…」 えっな、なにあの腕…。 どういうわけか、犬夜叉くんの腕は先から付け根まで、紫色の細い管のような触手に何重にも巻かれて覆い尽くされている不気味なものになっていた。私が不気味だと感じたのはそれだけのせいじゃない。唯一晒されている犬夜叉くんの手が触手に刺されていて、握り締める剣と一体化するように赤黒く変色しているからだ。 犬夜叉くんの“腕ずくで奪うしかねえ”というのは文字通りあの剣を手放せないからなんだろう。そんな異常な状況に殺生丸さまは表情ひとつ変えることなく、ただ真っ直ぐ犬夜叉くんのその剣を見つめられている。 「ふん…最初からそのつもりだ…」 なんでそうなるんですか殺生丸さま!!? ことを穏便に済ませる気配が全くこれっぽっちもない主の姿に思わず心の中でツッコんでしまった。強いって怖い。なんでも力で解決しようとするんだもん。 もはや呆れを通り越して変な笑みが浮かんできたよ。 …それにしても、殺生丸さまと犬夜叉くんの仲が悪いっていうのは本当だったんだ。というか、これほどまでだと思わなかった。 邪見が過大表現をしてるんじゃないかと思ってたんだけど、彼らがまさに闘おうとするところに立ち会ってみればそれが間違いだったんだと嫌でも感じさせられる。 (殺生丸さま…犬夜叉くんがお父さまの剣を持つことがそんなに気に食わないんだ…) 表情こそ変わらないものの、凄まじい怒気と殺気を湛える殺生丸さまの背中は見ているだけでも身を震わせそうになる。 ――そんなことを思っていれば、突如殺生丸さまが犬夜叉くんへ向かって強く地を蹴った。その瞬間犬夜叉くんも雄叫びを上げながら迎え撃つように駆けだす。 速い…。二人はただの人間である私の目では捉えられないんじゃないかと思うほどの速度で剣を交え、耳をつんざくような凄まじい音を響かせた。 「貴様には叢雲牙も鉄砕牙も相応しくない! いや、父上の血を受け継いでいること自体が許せぬ!」 「くっ」 怒りに任せて剣を振るう殺生丸さまを初めて目にする私が思わず言葉を失ってしまうと同時に強く振り切られた闘鬼神にほんの一瞬血の気を引いた。けれど犬夜叉くんは間一髪のところでそれをかわしてくれる。 よ、よかった…本当に当たったかと思って焦った…めちゃくちゃ心臓に悪いよこの観戦…。 お願いだからもっと穏やかに、という私の願いは届くはずもなく、犬夜叉くんは踏み止まってすぐ「んなこと、知るかよ!」なんて声を上げながら再び殺生丸さまへ飛び掛かった。 ギンッ、と剣同士がぶつかる音に何度も心臓が痛む。どうにかやめてもらう方法はないものかと思うもののそんな隙など当然あるはずもなく、私はただ祈るように二人の動向を見つめることしかできなかった。 そんな時、どこからともなく低く唸るような笑い声が聞こえてきた。 『クククク…殺生丸よ、この叢雲牙が欲しいのか?』 「剣が…喋ってる…?」 その声の主は犬夜叉くんの腕に寄生する叢雲牙のものだった。 剣でさえも喋るのかこの世界…摩訶不思議すぎてそろそろ頭が痛くなりそう。 でも叢雲牙は私のそんな思いなど露ほども知らず、まるで殺生丸さまを煽るように楽しげな声で語りかけていた。 『刃を合わせれば、貴様のことなどなんでも分かる…犬夜叉に左腕を斬られたこともな…』 「!」 「やかましいっ。少し黙ってろ!」 叢雲牙の声に殺生丸さまが顔を強くしかめてしまうと同時に犬夜叉くんが力任せに叢雲牙を振り抜いた。殺生丸さまはそれを容易くかわされるけれど怒りに歪んだ表情で再び犬夜叉くんへ襲い掛かっていく。 何度刃が離れようともすぐに打ち付け合う、そんな二人は眩い火花をいくつも散らしていた。 …はっきり言って、私はもうついていけません。これが兄弟喧嘩だと称されるのなら、私の中の常識が音を立てて崩れるぞ。 なんてことを圧倒される思いで考えていれば、突如犬夜叉くんの体が大きく跳び上がった。また勢いを付けて殺生丸さまに襲いかかるのか、と思ったけれどちょっと待って、なんかこっちに降って来てません? 来てるよね? ねえ? 「やばっ!」 「あらっ!」 「きゃあ!」 思い思いの声を短く上げた私たちが咄嗟に散った直後、今まさに私たちがいた場所にものすごい威力で犬夜叉くんが飛び降りてきた。そこへ続くように、殺生丸さまが犬夜叉くんの頭上から闘鬼神を思い切り振り抜いてみせる。するとどういうわけか青い閃光が地面を走り、その跡が大きく刻まれてしまっていた。 つ、強すぎる…分かってはいたけれど、殺生丸さまはやっぱりとんでもなく強いお方だ。でもそれに対抗し続ける犬夜叉くんも負けておらず、兄弟喧嘩と呼ぶにはあまりにも激しすぎる二人の争いは瞬く間にエスカレートしていく。 「殺生丸さまーっ」 どんどん犬夜叉くんを追い込んで離れていく殺生丸さまへ邪見が必死の声を上げる。けれど彼には一切届いていないようで、いつしか防戦一方となってしまっている犬夜叉くんへ追討ちを掛けるように攻撃を繰り出していた。 『どうした犬夜叉…貴様一人では勝てぬか…ならば我が力に従え!』 鍔迫り合いとなったところへ上げられる邪悪な声。それが虚空へ響き渡った直後、なんだか犬夜叉くんの様子がおかしくなった。遠くて顔は見えないけれど、いままで殺生丸さまになぶられ続けていたはずの彼が突然殺生丸さまを圧倒し始めている。 どうして急に…そう思っている間にも、殺生丸さまの体は犬夜叉くんに圧されて崖の縁へと追いやられていた。 『血を分けた兄弟が殺し合うとは…親子揃って愚かな者どもよ…あやつも我に従っていれば、あのような惨めな死を迎えずとも済んだものを…』 「黙れ!」 嘲笑うような叢雲牙の声に怒号を上げた殺生丸さまはその勢いのまま犬夜叉くんの体を押し退けてみせる。その刹那、闘鬼神を投げ捨てた手で犬夜叉くんの鉄砕牙を掴み込んだ。すると鉄砕牙から突然電気のような光が閃いて、殺生丸さまの表情がほんの一瞬痛みに歪んでしまう。 それでも殺生丸さまはその手を離すことはなく鉄砕牙を引き抜き、雄叫びを上げながら叩き付けるように振り切った。 その瞬間、地面は地下から衝撃を走らせるように抉り返されていき、それが瞬く間に犬夜叉くんへ向かっていく。 「えっちょ…うわっ!」 「きゃあっ!」 突然の猛攻は私たちの目の前を過ぎ去ってとてつもない風圧を与えてきた。それに怯えた私たちが咄嗟に身を屈めて頭を守った直後、ドオン、と轟く音に呆然としながら三人同時に顔を上げてみれば、辺り一面は一瞬で瓦礫の山と化していた。 「うっそでしょ…」 「すごおい…」 「さすがは殺生丸さま…」 あまりの圧倒的強さに感服する私たちが口々に声を漏らす中、鉄砕牙を落とした殺生丸さまが苦しげにその場へ膝を突いた。 「……!?」 「(なんということだ…殺生丸さまが膝を突かれるなど前代未聞…)」 「せっ、殺生丸さま!!」 驚く二人の隣で、私は咄嗟に声を上げて立ち上がっていた。駆け付けたかった。 けれどそれは『この叢雲牙に生贄を差し出せ!』と響かされた声と、見たこともない犬夜叉くんの恐ろしい顔に足が竦んでしまったことで叶えられはしなかった。 ――犬夜叉くんの顔はまるで、おぞましい妖怪のよう。赤く染まった瞳で見据えられる恐怖にジリ…と後ずさりかけたその時、突如その体がこちらへ向かって勢いよく駆け出した。 「ひっ、来たあ!」 「ぎゃーーーー!」 思わず悲鳴に似た声を上げた私たちは弾かれるように逃げ出した。でも相手は犬夜叉くんだ。それも様子がおかしい状態の。そんなのから逃げられるとは到底思えなかった。それでも全力で逃げるけど!! 「! りんちゃんっ!」 「きゃあ!」 背後に感じたとてつもない殺気に振り返れば犬夜叉くんがりんちゃんに向かって叢雲牙を大きく振りかぶっていた。私は咄嗟に地を蹴りりんちゃんを抱え込むように地面へ飛び込む。その瞬間叢雲牙が凄まじい勢いで私たちの頭上を過ぎ去った。 ほんの一瞬遅れてたら死んでいたかもしれない…そう思いながら見たことのない犬夜叉くんに畏怖の念を向ければ、慌てて目の前へ跳び出してきた邪見が私たちを庇うように人頭杖を構えてみせた。 「ぐおおお…!」 犬夜叉くんが対抗するように叢雲牙を振りかざしながら獣のような呻き声を漏らす。その向こうから殺生丸さまが駆けてくるのが見えたけれど、その手が届くよりも早く「おすわりっ!」という声が響き渡った。 この声はきっとかごめちゃんだ。ほんの一瞬の間にそれを理解した私の目の前で、突如犬夜叉くんの首に下げられた数珠のような首飾りがカッ、と眩く光り出した。それは私たちには計り知れない力で犬夜叉くんの体を押さえ込もうとしている。 「ぐおお…」 『くっ。なんだこれは!?』 「おすわりいっ!」 不気味に煽り立てていた叢雲牙でさえ驚愕の色を隠せないでいると、視界の端から突如現れたかごめちゃんが犬夜叉くんを抱きしめるように飛び付いた。 するとかごめちゃんの言葉に応じるように、犬夜叉くんの首飾りは途端に光の強さを増していく。その光景に私たちだけでなく殺生丸さまでさえ足を止めてしまうほどに驚いていたその直後、叢雲牙から『…小娘め!』と疎ましげな声が漏らされた。それに伴うように犬夜叉くんの腕に巻き付いていた触手がみるみる叢雲牙へ戻っていき、次の瞬間ドオン、という轟音を響かせて破裂してしまう。 「ぐうっ!」 「邪見!?」 ものすごい爆風にりんちゃんを守るよう抱きしめた瞬間、隣から邪見の情けない声が上がった。なんか変な音もした気がするし、石かなにかが当たったのかもしれない。 やがてあっという間に収まった風に安堵のため息をこぼしながら目を開けてみれば、私たちの目の前には大量の土煙がゆったりと流れている。そのままちら、と隣の邪見へ視線を向けると彼は目を回して仰向けにひっくり返っていた。 「勾玉…?」 よく見れば邪見の緑色の額には陶磁器のような白い勾玉がめり込むようにくっ付いている。これのせいで邪見が気絶したのか…確かこの勾玉って、犬夜叉くんの首飾りの一部だったはず。それが邪見に飛んできたということは、あの首飾りがそこら中に四散してしまったに違いない。 つい確認するように周囲へ視線を巡らせかけた時、「待て!」という犬夜叉くんの声が響いた。その声に釣られて振り返ってみれば、どこかへ行ってしまおうとする殺生丸さまが背中を向けられている。 「叢雲牙はおれがぶっ壊す! 余計な手出しすんじゃねえぞ!」 「貴様には無理だ…」 「なにいっ!?」 「小娘には感謝するんだな…」 殺生丸さまは犬夜叉くんへ静かにそう告げると再び歩き出そうとする。その姿にとてつもない不安のような感情を感じて、ざわつく胸を抑えきれなかった私は咄嗟に身を乗り出していた。 「殺生丸さまっ!」 私の声が虚空に消える。それに伴うように、殺生丸さまは黙ったまま顔だけをわずかに振り返らせて視線をくれた。 待ってくださいって、その一言だけを言いたかったのに。それだけなのに、殺生丸さまの鋭いその瞳を見た私は声を出すことすら叶わず、固く口をつぐんでは伝わるかどうかも分からないほど小さく頷いた。 絶対について行くと言ったのは私だ。 しがらみにならないと決めたのは、私だ。 私はそれをもう一度自分へ言い聞かせるように胸に強く響かせながら、静かに去りゆく殺生丸さまの背中を見届けていた。 back