07


邪見が意気込んで姿を消して、残された私たちはどうしようかと互いに顔を見合わせていた。はっきり言って私たちはこんなところになんの用もないし、邪見を待つにしてもどれだけ時間がかかるとかなにをしていればいいとか、なにも分からないまま。ただ途方に暮れてため息をこぼすことしかできなかった。 邪見の奴、自分からついて来いって言ったくせに結局置いて行ってくれちゃって…少しは私たちのことも考えろっての。 「はあ…殺生丸さま、待ちくたびれてないかな…」 たまらず座り込んで頬杖を突きながら呟けば、りんちゃんも同様に隣へしゃがみ込んできた。りんちゃんだって早く帰りたいんだろうなあ。 そもそも、私たちはご飯を探しに行くだけの予定だったはずだ。それなのに気が付けば夜を越えている。ここまで遅くなるなんて思ってもいなかったし、それ故に殺生丸さまへ言づけしていないから気を遣わせてしまっているんじゃないかと心配になる。 (…いや、心配はしてないか。たぶんまたどこかに行ってるだろうし…) ぼんやりと空を見上げては殺生丸さまを脳裏に浮かべてみる。 殺生丸さまは私が思っている以上に邪見を信頼しているのか、たまに予定以上の時間が過ぎてしまってもさほど気にせず、私たちを邪見に任せたままご自身の用事を片されている。だからきっと今も、私たちのことを気にせずどこかへ赴かれているはずだ。 そう思うと心配なんて全然無用だったな、と今までの思考を掻き消そうとした時、りんちゃんがなにかに気が付いたようにふっと向こうへ振り向いた。 「ん? りんちゃん、どうかした?」 「なんだか…悲鳴のような声が聞こえたような…」 「悲鳴?」 じっと遠くを見つめながら言うりんちゃんに首を傾げて同様にその視線の先を見つめてみた。そこは特になにもないようだけど、りんちゃんの言う通りどこからか悲鳴のような変な声が微かに聞こえてくる。なにがいるのかなんて分からないけど、それはなんだかこっちに近付いているような…… 「だあちゃーあちゃちゃちゃちゃっ! 焼ける焼ける焦げる焦げる燃える燃える燃える燃える!! 助けてーっ!!」 「えっじゃ、邪見っ!?」 悲鳴が鮮明に聞こえたかと思えば、お尻に火をつけた邪見が物凄い勢いで目の前を駆け抜けて行った。なんであんなことになってるんだあの子。と、とにかく助けないと! 慌てて追いかけようと立ち上がったものの、水水と叫び続ける邪見は目にも留まらぬ猛スピードで駆けていく。その先は崖だ。けれどそれに気が付いているのかいないのか、はたまたそれどころではないのか、邪見はスピードを緩めることなく真っ直ぐに崖へと向かっていた。 「阿吽!」 念のため近くに控えさせていた阿吽を呼べばすぐさま駆けてきてくれる。私は咄嗟にりんちゃんを抱え込み、アクション俳優ばりの勢いで阿吽の背中へ飛び乗っては手綱を強く握りしめた。うん、いまのは我ながら惚れ惚れする運動神経だ。 急いで阿吽を飛ばして竹林を飛び出したその時、邪見はちょうど崖から飛び出して足元に地面がないと気が付いてしまっていた。ダメだ、あれは落ちる。そう思った瞬間、邪見がなんとも情けない悲鳴を上げながら勢いよく落ちていった。 思わず「ああもうっ」なんて声が出て手綱を打ちつけようとしたけれど、私がその手を振り降ろすことはなかった。というのも、邪見が落下途中でなんとか崖にへばりついて自力でよじ登り始めたからだ。 その姿につい安堵のため息がこぼれ、次いでは呆れたように肩を落とした私はすぐさま阿吽を邪見へと近付けてやった。 「おーい邪見ー、大丈夫ー?」 そう呼びかけてみたけれど返事はない。彼は荒い呼吸を繰り返して崖を登るのに必死だ。 しばらくしてようやく身を乗り出すところまでいけたようだけれど最後の最後を昇り切る元気がないのかそのまま大きなため息をこぼしている。そんな邪見の体は随分とボロボロで、この作戦への執念深さが窺える。とはいえ…… 「やっぱり無謀だと思うよ。いまので犬夜叉くんたちに敵わないのは身を持って知ったでしょ?」 「な゙。こ、これは奴らにやられたわけではないわっ」 「え? そうなの?」 指を差してまで思いっきり否定された私は思わず呆気にとられてしまう。てっきり犬夜叉くんたちの誰かに返り討ちにされたものだと思っていたからものすごく驚いた。…というか、それならなんであんな大参事になってたんだろう。 なんてことを私がぼんやりと考えかけた時、私の前に座るりんちゃんがじっと邪見を見つめながら純朴そうに問いかけた。 「痛い? 邪見さま」 「痛いわいっ」 「じゃあもうやめる?」 「やめないっっ」 そう必死に反論した邪見がついにわとわたと崖を昇り切ってみせる。かと思えば勢いよくこちらに振り返って、なんとも強張った表情を向けてきた。 「ええい、邪魔じゃ邪魔じゃっ。志紀、りん。お前らはどっかに行っておれい!」 そう言うと同時に邪見は腕を大きく振るい、私たちを追い払うような仕草を見せてくる。そんな姿にたまらずむっとすると、それはりんちゃんも同じようでどこかふて腐れるように邪見から顔を背けて小さく呟いた。 「役に立つところ見せてくれるって言ったのに」 「言ってないよー!」 「いや、言ってたでしょ…」 往生際の悪い言い訳をする邪見を尻目に、私は阿吽を大空へ飛ばして邪見の元を去った。覗き込んだりんちゃんの顔がひどく居心地の悪そうな感情を湛えていたから、きっともう邪見の傍にいたくないんだろうと思って。その気持ちは私も同じだったし、なんならこのままコテンパンにやられて頭を冷やせばいいとさえ思った。 ――それまでの間、私たちはそこらで時間を潰していようということになり、ひとまず川が伸びる方角へ向かうことにした。 「待っておれ犬夜叉…必ずやその手から鉄砕牙を奪ってくれるぞーっ!」 そんな大声で宣言してたら聞こえるぞバカ。 * * * 「ふん。邪見さまなんか知らないもん」 川の水で濡らしたタオルで阿吽の体を拭いてあげるりんちゃんが不機嫌そうにぼやいた。気持ちはとっても分かる。勝手に変な作戦を企てて、私たちを連れ回しておきながら結局どっか行けとか言って…自分勝手にもほどがあるよ。 今回ばかりは本当に厄介に感じてしまい、たまらず大きなため息をこぼした私は川に浸していた足をばしゃ、と蹴り上げた。 「ん?」 ふと視界に映る、小さくて白いなにか。それが水と一緒に宙を舞ったことに気が付くと私はすぐさま覗き込むように前屈みになった。 どうやらそのなにかは可愛らしい花のよう。上流から続くようにもうひとつ流れてくる様子を見つめていれば、りんちゃんも同様に気が付いてぱっと表情を明らめた。かと思いきや、突然足場である岩から私の方へぴょん、とジャンプしてくる。 「いいこと思いついた。志紀お姉ちゃん行こう」 「え。ど、どこに?」 「おいで、阿吽っ」 あ、見事にスルーされてしまった。 どうやらりんちゃんは思いついた“いいこと”とやらで頭がいっぱいらしく、一人でさっさと先走っていく。す、少しは待ってよりんちゃん! なんて届きもしない思いを抱えながら慌てて上げた足を拭き、阿吽の手綱を取って小さな背中を追いかけた。 ――りんちゃんが駆けていった場所。それは小さな花が咲く森の中だった。 ここに辿り着くまでに太陽は沈み切ってしまっていて、気が付けば辺りは随分と暗く影を落としている。それでも邪見はまだ帰って来ず、私はぼんやりと彼の動向を脳裏に浮かべてみていた。 (邪見…ちゃんと生きて帰って来られるかな) きっと命までは取られないだろうけど、身動きが取れないくらいにはボコボコにされている可能性がある。それを思うと捜しに行くべきかと思うけれど、さっき言われた横暴な言葉でやっぱりやめようと首を振るった。 するとしゃがみ込んでいたりんちゃんが不意に立ち上がって、くるりとこちらへ振り返ってくる。 「もういいの?」 「うん。殺生丸さまにあげる花も摘んだし、帰らなくちゃ」 そう言うりんちゃんの手には足元に咲いているものと同じ、紫色の小さな花が数本握られていた。殺生丸さまにあげるなら萎れる前に戻らなきゃね。そう微笑みかけてはりんちゃんの体を抱き上げて阿吽の背に乗せてあげた。そして私は手綱を手に、殺生丸さまの元へ帰ろうと暗い森を歩いていく。 けれどその足は数歩進んだところで止まってしまい、私もりんちゃんも同時に辺りを見回し始めた。 「帰り道って…どっちだっけ…」 「えーっと…あれ…道が分からない…」 揃ってきょろきょろと視線を巡らせてみるけれど、ただでさえ暗い森は夜という深い闇によって道なんて分からないほどに色を落としている。 「ねー、殺生丸さまの匂いはしない?」 困り果てたりんちゃんが阿吽に問いかけるも左の阿がふるふると首を横に振るった。考えてみれば殺生丸さまがあの場に留まっているとも思えないし、元居た場所に戻ろうとするのは間違いなのかもしれない。 そうとなると私たちはいま、殺生丸さまの元へ帰ることができない。不本意だけどここは… 「そう…じゃあしょうがないや…邪見さまの方へ」 やはりりんちゃんも私と同じ思考に至ったようで囁くように阿吽へ指示した。本当はまだ邪見に会いたくないだろうけど、殺生丸さまの元へ戻るには彼を頼るしかない。だからりんちゃんは我慢しているんだ。 それを悟った私は阿吽の背中、りんちゃんのすぐ後ろに跨ると慰めるように頭を撫でてあげる。そして手綱を強く握り締めて、安否も知れぬ邪見の元へと阿吽を向かわせた。 back